去年から少しずつ、佐藤史生の作品を読み返している。
「佐藤史生コレクション 2」に収録され、いまは電子書籍でも読める『金星樹』は、佐藤史生の初期SF短編集である。ある年齢以上の世代にとっては「懐かしい」作品群であり、若い世代にとっては、萩尾望都や竹宮惠子の初期SF作品を読むときのような、女性漫画家による日本SF史を確認するための、ひとつの手がかりとなる一冊だろう。
興味深いのは、1992年刊行の新潮社版『金星樹』のあとがきで、佐藤史生自身が、この短編集に収録された作品群を、自ら、少し古いタイプのSFだと言及していることだ。以下、そのあとがきから、著者の言葉を引用する。
”「金星樹」と「花咲く星々のむれ」では、若かりし私が感涙にむせんだ、古き良きハッピーエンドSF感というものを描きたかった。すでに読むほうのSFは、そうした〈古きよきSF〉から先へ進んでしまっていたので、――(後略)”
「古い」と自覚していたということは、その時点で佐藤史生が「新しいSFとは、どのようなものか」を、明確に把握していた証拠でもある。この短編集に収録されている作品群が描かれた1970年代は、海外SF界で、アーシュラ・K・ル=グウィンやジェイムズ・ティプトリー・Jr.など、大勢の女性SF作家の才能が花開いていた時代だ。”すでに読むほうのSFは、――” という発言は、佐藤史生が、リアルタイムでこの流れを受け入れ、評価していた、という意味になる。おそらく、佐藤史生だけでなく、当時、日本国内でSFを創作していた女性漫画家の多くが、この時代の流れを歓迎し、自分たちがやってきたことは間違っていなかった、という確信を得ていたことだろう。
ジャンルSFには、内外を問わず先行作品のアイデアを共有しながら発展していく性質があるので、必ずしも、古いアイデアが現在において批判される対象にはならない。たとえば、タイムマシンやタイムトラベルというアイデアは、概ね、いまでも、H・G・ウェルズが1895年に書いた作品がベースとなっているが、21世紀現在でも、細部を現代的に変更すれば充分に通用するし、実際、そのような形で繰り返し使われている。
したがって、ここで佐藤史生が指摘している「古さ」とは、二重の意味を示していると考えられる。ひとつは、「よい意味で、古典的なアイデアを下敷きにしている」ということ、もうひとつは、上に記した通り、あとがきが書かれた1992年の時点で(より正確に記述するなら、作品を描いた1970年代において直観された形で)「これから先にあるべき現代SFとしての新しい形が、佐藤史生には見えていた」という意味である。前々回のコラムでも紹介した通り、佐藤自身によるサイバーパンク・ムーブメントのはしりでもある『ワン・ゼロ』は、海外作品の邦訳に先行する形で、1984~1986年に、既に、書かれているのだ。
短編集『金星樹』の冒頭に収録されている「星の丘より」は、70年代当時、女性向け漫画雑誌に掲載されるSF漫画でよく見られた、ファンタジー的な手法を併用した描き方である。物語はファンタジー風に始まり、プロットの進行と共に、徐々に、SFとしての細部が明らかになっていく。読者にとっては、ファンタジーとSFの両方を味わえる、実に楽しい手法である。SFに馴染みのない少女読者にSF漫画を読んでもらうために、そのような手法が効果的だった時代が、かつて日本にはあったのだ。女性向け漫画雑誌で、科学用語やSF用語をストレートに駆使して漫画を書けるような時代になってからも、この手法は残り続けている。
商業誌での制約から生まれた手法とはいえ、これは、女性向け漫画雑誌のSF作品に、男性向け漫画雑誌のSF作品とは少し違う雰囲気の、独特の作品群を生み出したのではないかと思う。そして、SFとファンタジーとの境界線上に、境界線上であるがゆえの、何ものにも縛られない自由で豊穣な世界が広がっていることを「発見」「提示」してみせたことは、佐藤史生に限らず、この時代にSF少女漫画を書いていた作家たちの、大きな功績と言えるだろう。
私自身は、この短編集の中では、表題作となっている「金星樹」が最も好きである。
閉鎖された環境内での時間進行が極端に遅れるという展開は、1971年に発表された梶尾真治のデビュー短編小説「美亜へ贈る真珠」との共通項が多い。似た作品は、ジャンルを問わず他作家によっても書かれており、ごく最近の作品でも、そのような作例を見かけた。
時間の遅延や伸び縮み、他者との時間経過のズレなどを扱ったSF作品は数多くあり、たとえば、最新の海外作品からひとつ選ぶなら、韓国の女性SF作家、キム・チョヨプの短編集『わたしたちが光の速さで進めないなら』(早川書房)における表題作も、他者との時間のズレから生じた女性の数奇な人生を描いた物語だ。この分野は、作家ごとに作風が異なっていながら、どの作品にも、どこか共通した空気感が感じられることが多く、じみじみとした情緒に満ちていることも特徴的である。
なぜ、私たちはこれほどまでに、時間を題材としたSF作品に心を揺さぶられ、我が事のように、これらの作品から、愛や哀しみを深く受け取るのだろうか。おそらく私たちには、人間の身体に刻まれる時間の進行(主に老化として自覚される)の他に、脳の中だけで感じとれる時間の概念があり、そこでは私たちの心は容易に時代を超えたり、時間を遡ったり、未来に行ったりすることが可能なのだ。時間を題材としたSFは、私たちの「心が生む時間」と共鳴する、特別な領域にあるのだろう。
佐藤史生の「金星樹」も、他者とは違う時間の流れの中で幸福を見出す物語である。その美しさが、文字通り歳月を超えて、いつまでも心に残り続ける。