ロウ・イエ監督の『頤和園 ~天安門、恋人たち~』をオンライン試写会で視聴。https://www.uplink.co.jp/summerpalace
昨年、同監督の作品『サタデー・フィクション』(1930年代の上海租界を描いたスパイ映画)にコメントを寄せたご縁で、今回も試写の案内をいただきました。
配給会社のアップリンク様に御礼申し上げます。
本作は中国とフランスの合作映画で、カンヌ映画祭で初上映となったのは2006年。このとき中国での検閲完了を待たずに公開したため(※これは意図的なものではなく、検閲によるフィルムの修正・再提出が繰り返されたことで、結果的に、カンヌでの上映日までに検閲完了が間に合わなかった)これにより、監督は中国政府から5年間の表現活動禁止処分を受け、作品自体も中国では未公開となった。だが、作品は世界中から注目され、監督の名前も広く知られていった。
日本では 2008年に初公開。タイトルにもある天安門事件の描写自体は少なく、学生運動を描いた作品ではない。たまたま、この時代に北京の大学に在籍し、事件の当事者でもあった学生たちの、天安門事件前とその後を描いた作品である。ちなみに、監督自身もこの時代に学生だったそうで、作品には、そのときの体験が織り込まれているという。
2006年当時 35mmフィルムで撮影された本作は、今回デジタル化され、日本では 5月31日(金)から全国の映画館で再上映となる。初上映時と違って、タイトルに大きく、中国語での原題である『頤和園(いわえん)』という文字が入った。頤和園は北京にある公園(歴代皇帝の離宮)で、英語名は Summer Palace。北京の大学生がデートによく使う公園だそうで、この物語を象徴する優れたタイトルだが、2008年の日本での初公開時に『天安門、恋人たち』という日本語タイトルがつけられている。
今回の上映では、フィルムからのデータのレストア(画質を向上させるための処理。字幕の付け直しなども含む)をあえて行わず、カラー調整のみ行っているという。近年、積極的になされる 4Kレストアに逆行する選択であるが、これは配給側の意図的な判断。フィルムの肌触りや空気感を、データ化してもあえて残したかったという旨が、配給側から公開されている。視聴にはまったく問題ない。むしろ、フィルムの画質を生かしたこのデータ化は、物語の舞台となった1980年代(もはや、35年ぐらい前である)を振り返るときに、より効果的になっているように私には感じられた。人間の体温や肉感や気候までもが、そのまま伝わってくるかの如き質感だ。
本作の舞台となる時代―― 1980年代当時、中国の大学進学率は、まだ 20%ぐらいだったという(現在は58%ぐらいで、日本とほぼ同じ)。主人公の女性は、大学への進学が可能な若者がまだ少なかった時代、北京の名門校(作中では「北清大学」と称される。「北京大学」と「清華大学」を合体させた架空の大学名)の入試に合格し、地方から北京へ出られた優秀な学生である。そして在学中に、「もしかしたら中国の民主化が成功するかもしれない……」という、この時代に勃興してきた明るい希望に触れて高揚し、その希望が脆くも崩れ去った天安門事件を経由することで、後年、鬱々とした人生を送っていくこととなる。作中で描かれるのは、学生時代の燃えるような恋愛や、社会へ出てからも続く恋愛遍歴の過程である。民主化の望みが消えた中国に対して、同時代、ベルリンの壁が崩壊して東西ドイツの統一と民主化が始まる出来事も差し挟まれる。登場人物の何人かは一時期的にドイツへ渡り、そこで新しい生活を始める。だが、欧州で安寧に暮らしても、心にあいた穴が埋まるわけではない。
「最も手に入れたいものが、どうしても手に入らない」。
この引き裂かれるような感情が、映画の最初から最後まで各登場人物の心についてまわる。天安門事件という出来事をひとつの象徴として、それ以後の「現在」を前に、常に、思い出という名の破片で心を裂かれて血を流しているような、そんな不安定さを抱えたまま生きていく登場人物たちが、過去と訣別するまでを描いたのがこの映画だ。その過程は一本道ではなく、曲がりくねった迷いに満ちた道である。
映画の最初から最後まで監督の観察眼は冷静だ。人と人とのあいだには、絶対的な正解など存在しないと断言するかの如く物語は進行するが、同時に、ひとりひとりの人間の精神性と身体性に接近していく監督のまなざしは優しく胸を打つ。単純な倫理観だけを基準に見れば、本作の登場人物たちは、誰もが、特に正しいことをしているわけではない。天安門事件を体験しているからといって、社会的な思想や信念をことさらに強調するわけでもない。この時代、大学に進学できた賢い若者たちではあるが、社会全体を背負って立つ特別な人間になったわけでもない。しかし、そのことがかえって、この時代を生きた世代の夢と虚しさを切実に伝えてくる。特殊な時代背景をそなえた作品だが、登場人物たちがそれについて過剰に語ることはなく、その影響を口にすることもない。そのため、ある登場人物の行動に至っては、その行動動機が完全に観客の想像力のみに委ねられており、大きな謎として観客の心に残るかもしれない。そういった、人間の「わけのわからなさ」を含めて、登場人物の誰もが、この時代に本当に実在していたかのように感じられる脚本と撮り方が見事だ。優れた創作物に共通する「虚構の力による魔法」だと言ってしまえばそれまでだが、扱われている時代が時代だけに、この生々しさには価値がある。様々な人の心が、歴史的事実とほんの少しだけ重なり合うがゆえに、映画が終わったあとも強い余韻となって残り続けるのである。