「異形コレクション」用に、四百字詰め原稿用紙換算40枚余程度の原稿を、締め切りまでの2ヶ月を丸々費やして執筆した。当時私は、家庭の事情で、毎日4時間ぐらいしか寝られない生活を送っていたのだが(それも、まとまってこの時間をとれるのではなく、1時間ずつぐらい、細切れ状態で休みをとっていた)憧れの「異形コレクション」から仕事をもらえたことがうれしくてたまらず、お渡しするのは40枚だけでいいのに、主人公の性質や性別や視点(一人称・三人称)を入れ替えたバリエーションを3通りぐらい作って、その中から一番いいものを選んで最終稿とした。
たった40枚の作品のために、3通りに書き分けた原稿を準備して検討するというのは手書き作業だったら狂気の沙汰だが、この頃はもうパソコンのエディタで書いていたので、検索や一括置換を使えば、各要素を入れ替えてバージョン違いをつくるのは簡単だった。実は、このときに渡した最終稿では、主人公の性別を固定しない書き方をしている。あれは男言葉で喋っている女性として読むことも可能なのだ。のちにシリーズとして続けていくうちに、男性ということにしておいたほうが都合がよさそうなので、そこへ合流する解釈に変えていったが、とにかく、性別を固定しないで書くことが、このときにはひとつの目的だった。
原稿を送ったあと担当編集者から届いた返信には、井上雅彦さんがとても喜んでいたと記されていた。当時は作品をリアルタイムで誉められる機会がほとんどなかったので、とてもありがたかった。私の小松左京賞デビュー作は、ライトノベル全盛期に刊行されたこともあってSF界からはほとんど注目されず(当時は、「ライトノベルこそが、これからのSFを背負うジャンル」とジャンルSFの書評家が喧伝していた)、SFマニアからは「これはSFではない」とか「小松左京賞受賞作らしくない作品だ」とか「早川書房以外から出たSFの本はすべて偽物のSFなので読まないようにしましょう」といったことまで言われていた。2作目の作品に至っては、年刊ランキングの本において、刊行したこと自体すら言及されなかった。15年ぐらい経ってから知ったのだが、当時のこういった雰囲気が影響を与えていたのか、良心的なSFファンの中にも私のデビュー作を読み逃した方は結構いたようだ。そんな具合だったので、ダイレクトによいリアクションをもらえるのはまれだったのだ。
異形コレクション「進化論」が刊行されて、各作品の扉ページ裏につく、井上雅彦さんによる著者紹介文を読んだときも、びっくりした。
” かくも魅力的な〈異形〉を紹介できる悦び ” と書かれていた。
狙ったところにぴったりとはまった感想が来た、作品の本質を理解してもらえたのだとわかってうれしかった。
本アンソロジーが刊行されたとき、『学問としての「進化論」という言葉から見たとき、異形コレクションの「進化論」に収録された作品の大半は、科学でもなんでもなく、ただのトンデモ理論の博覧会だ』といった批判も目にしたが、私にとっての「異形コレクション」は、出されたお題をどれだけ奇妙に解釈して面白い話に仕上げるかという部分に要点があった。学術的には有り得ないことを、いかにも本当にあったようにホラ話として書けたら面白いだろうなあ、というぐらいの自由な執筆精神であたるほうが、自分にはしっくりきたのだ。
だから私はいまでも「魚舟・獣舟」を、”ストレートSFではなく、あれはホラー寄りの作品です “と説明したり紹介することが多い。ストレートSFとしての形態は、アイデアを切り出すための原型となった長編版のほうで生かせばいいと思っていた。
だが、問題は、「異形コレクション」に掲載されただけでは、長編刊行への道が拓けるわけではないということだった。