2011年の東日本大震災をきっかけに、「異形コレクション」が長い休眠期間に入り、広義の短編SFを自由に書ける場がなくなった。私は短編集『夢みる葦笛』を2016年に刊行したことで、手元に残っていた単行本未収録短編SFの数もゼロとなり、『破滅の王』の執筆に集中できるようになった。この頃には周囲の状況もだいぶ落ち着き、困った問題も消えて、歴史小説という新しいジャンルで仕事を進められるようになっていた。
連載用の原稿を書き始めてすぐに、自分がやりたいことは、単行本一冊分では書き終えられないと気づいた。
『破滅の王』という物語自体は一冊で終わっても、戦時上海について語るには、最低でもあと二冊は必要だと判断した私は、連載後の単行本化作業が終わると同時に、連載初回から3回分ぐらいまでの原稿をプリントアウトして、それをサンプルとして光文社に営業をかけた。
「今度、他社からこういう長編を刊行するのですが、同時代を舞台にした別のアイデアがあります。御社で刊行できませんか」と。
まっさきに光文社に持っていったのは、「上海フランス租界祁斉路三二○号」を「小説宝石 2013」に掲載してもらったときに、担当編集者から「もしよかったら、これの長編版を書いてみませんか」と勧められた経緯があったからだ。このときには、双葉社からの依頼のほうが先だったので、次の機会に別の作品をお任せしたいと考えていた。光文社の担当編集者は、デビュー以降ずっと一緒に仕事をしてきた方で、短編集『魚舟・獣舟』の刊行にもかかわって下さった方だ。信頼関係ができあがっていたので、サンプル分を読むと、すぐにOKを出してくれた。
このとき、光文社の担当編集者に話した新作の内容が、のちの『ヘーゼルの密書』である。
「上海フランス租界祁斉路三二○号」で少しだけ触れた、日中和平工作の話に焦点を当てた構想が、このとき既にできあがっていたのだ。2017年12月の話である。(『破滅の王』の刊行は2017年10月)
それに先駆けて双葉社のほうにも、『破滅の王』の単行本を刊行した直後(刊行から一週間ぐらいたってから)に、「同時代を舞台に別のアイデアがあります。阿片売買の話です」と話を切り出してあった。単行本初版分の売り上げもまだ見えていない段階での突撃営業だったが、担当編集者はすぐに反応してくれて、メールで相談をやりとりしているうちに、一ヶ月も経たずに作品全体の構想が出来上がった。これが、のちの『上海灯蛾』となる。こちらは 2017年11月の話だ。
2017年といえば、『華竜の宮』のプロローグの冒頭が2017年である。2010年に刊行した作品で、なぜ2017年という比較的近い未来から物語を始めたのか。これには理由がある。
『華竜の宮』を刊行する前、私は、もし、この作品が世間にまったく受け入れられなかったら、5年ぐらいで読者の視界から消えるだろうと予想していた。私よりも遙かに才能があり、実績もあり、著名な作家の作品が、クオリティはまったく落ちていないのに次々と絶版となる(存在を消されていく)……そういった恐ろしい現象を、それまで繰り返し、目の当たりにしていたからだ。
「いい本なのに売れない」という言葉は、1990年代以降、ジャンルを問わず、しばしば、本に関わる仕事をしている人や読書家のあいだで囁かれていた。何をもってして「いい本」とするのか、いまはその話は横に措くとして、なぜ本が売れないのか、編集者が売りたいという強い熱意をもって世に出した本の売り上げが伸びないのか、それに対する明確な答えは存在しなかった。いまでも存在しないだろう。あらゆる要素が、複合的に絡み合っているからだ。
だから、私が個人で対策できることは何もなかった。全力で執筆したあとは、ただ、祈るしかなかったのだ。
『華竜の宮』には、最低 7年は生き延びてほしいと。その期待を込めて、まじない的な意味で 7年先――2017年の年号を作中に記したのだ。
そして、2017年の時点で、『華竜の宮』はどうなっていたか。
生き延びていた。毎年、新しい読者が現れた。読者は消えなかった。本も消えなかった。いまでもこの流れは続いている。
これは、電子書籍での配信があたりまえになったことが、とても大きかったのではないかと思う。また、版元の早川書房は、頻繁にSF関係の本のフェアを開催したり、神田のブックフェスティバルでサイン本を売ってくれたりした(いまもやっている)。これもよい影響を与えている様子だった。
歴史小説の執筆中も、私のSF作品は販売市場から消えることなく、新しい読者を生み続けた。おかげで SFに戻れる準備は、いまでも常に整っている。早川書房の担当編集者の努力を無にせずに済んだのは、本当にうれしく、ありがたいことだ。
『破滅の王』のあとには『リラと戦禍の風』の執筆が待っていたので、『ヘーゼルの密書』と『上海灯蛾』は、担当編集者に相談した時点では、まだ、あくまでも予定に過ぎなかった。予定にすぎない以上、何かあれば白紙撤回になる可能性はゼロではなかったのだが、幸い、何事も起きず企画はスムーズに受け入れられ、『破滅の王』→『リラと戦禍の風』『播磨国妖綺譚』→『ヘーゼルの密書』→『上海灯蛾』と作品を積み重ねられた。世間的にもようやく、「SFだけでなく、歴史小説も書く作家だ」とわかってもらえるようになったのだ。