前回記した仕事に集中していた期間、小松左京賞は第七回の応募を迎え、伊藤計劃さんと円城塔さんの名前が世に広く知られるようになった。第七回は「受賞作なし」の年なのだが、下読み委員と小松さんとの意見が一致しなくて、受賞者が出なかったのだ。
新人賞によっては、その賞の出身者が下読みを担当することもあるらしいが、小松左京賞の場合にはそのようなことはなく、自分が応募したときの状況以外は、賞の内情については何もわからなかった。第七回の状況に関しても、後々、少しずつ伝聞で話を聞いた程度である。
それらを総合すると、以下のようになる。
・下読み委員は伊藤さんと円城さんの作品を推しまくったが、小松さんがどうしても受賞に賛成しなかった。
・ただ、作品を理解できなかったから反対したわけではなく、「面白い」「(伊藤さんの作品に対して)これは売れるだろうね」と発言したという話は外部にも伝わっており(私も人を介して知った)、議論の争点は別にあったようだ。また、応募作と後に刊行された作品は当然のことながら改稿によって大きく変わっており、小松さんと違って、読者は改稿されたものしか読んでいない。伊藤さんの作品は終盤の一章分が丸々書き下ろしになっており、応募時の印象とはかなり違うという。これは当時からオープンになっていた話だ。
伊藤さんと円城さんが早川書房から著作を刊行し、評判になったときの日本SF界の状況を正確に説明するのは大変難しい。その状況を見る人の立ち位置によって、見えるものが全然違っていたからだ。たぶん、誰もが自分の立場からしか物を言っておらず、見えていない部分にまで言及した人は皆無だった。
小松さん自身は、選考後の世間の流れにはまったく反応していなかった。あとから何か発言を付け足したという話も、私は聞いていない。そういった態度をどう思うかは、人それぞれの価値観にかかっている。
このあたりの事情や逸話も、関係者ひとりひとりに取材して正確に記録を残していけば、おそらく書籍一冊分ぐらいの膨大な量になるだろう。誰も誰かを積極的に傷つけたいとは思っていなかったはずだが、現実は違った。非論理的で中傷的な言説がネットを駆け巡り、本来は無関係なはずの小松左京賞受賞者までもが巻き込まれるようになってきたので、私としては自分の仕事に集中し、一日も早く、改稿版の文庫と個人短編集とJコレクションの書き下ろしを仕上げる以外に、自分の身を守る方法はなかった。
障壁は大きく数多くあったが、やるべき仕事に集中したおかげで、現在まで作家業を続けられる環境を整えられたのは幸いだった。