(22)~(23)【著者記録: 2003-2023】『華竜の宮』刊行へ向けて (1)

2000年代前半、長編SFを出版してくれる版元は限られており、そういった版元が無制限にSFの本を出しているわけでもなかった。以前書いた通り、角川春樹事務所は小松左京賞の応募を継続していたものの、一部の作家以外はSF出版の企画が通らなくなっていた。

いっぽう日本SF新人賞は、主催は日本SF作家クラブ、徳間書店が「後援」するという形で、こちらも粛々と応募と刊行が継続中だった。のちに徳間書店は、トクマ・ノベルスのサブレーベルとして「トクマ・ノベルズ Edge」を立ち上げ、広義のSF・ファンタジー作品を受け付ける新人賞を自前で設立する。徳間書店からは、このふたつの新人賞から次々と若手作家がデビューする形となり、SF専門誌「SF Japan」の刊行も手がけていた編集部は超多忙状態。既に他社でデビューしている私には、とても原稿を持ち込めそうにない雰囲気だった。
 
東京創元社は、2000年代前半には、SFはまだ翻訳作品を中心に刊行しており、ベテラン国内SF作家の作品を復刊したり、アンソロジー「年刊SF傑作選」の企画が始まったりするのは、もう少し先の話(2008年に第一巻「虚構機関」が刊行)である。SFやファンタジーの新人賞は、まだ自前では持っていなかった。国内作家に関しては、SFよりもミステリーの刊行に力を入れていた。
 
光文社は、「異形コレクション」を定期的に刊行してくれる、SF作家にはとてもありがたい版元だったが、早川書房や東京創元社と違って、SF専門の部署がなかった(いまもない)
光文三賞(「日本ミステリー文学大賞」「日本ミステリー文学大賞新人賞」「鶴屋南北戯曲賞」)の内訳からもわかる通り、ミステリーを中心に広くエンターテインメント作品を刊行する出版社だ。文庫担当部門が「魚舟・獣舟」や「くさびらの道」をどれほど面白がってくれても、本格的な大長編海洋SFをお任せするのは無理だろうと思い、これはやはり、早川書房に営業をかけるしかないだろうと考えた。
 
「魚舟・獣舟」が「異形コレクション」に載ってしばらく経った頃、出版社主催の文学賞パーティーに出席した私は、会場で、早川書房の塩澤編集長(当時「SFマガジン」の編集長)を探して見つけ出し、自分からご挨拶した。長編SFの構想があるのですがその原稿を持ち込んでもよろしいでしょうかと訊ねると、塩澤さんは実にあっさりと「いいですよ」と仰る。このとき塩澤さんは「魚舟・獣舟」に関するSF関係者の反応を既にご存じで、その場で原稿の持ち込みを快諾して下さったのだった。

当時の私は別件で死ぬほど忙しく、すぐに原稿をお渡しすることはできなかったのだが、とにかく塩澤さんが受け付けてくれるとわかって安堵し、これで最初のとっかかりはできた、あとは原稿を書くだけだと少し気が楽になった。

この状況が急展開を迎えたのは「くさびらの道」を発表した直後、2007年である。

ある日、個人ブログのメールフォーム経由で一通のメールが届いた。
差出人は早川書房の編集者。塩澤さんではなく、まったく知らない方だった。メール本文には「長編SFの原稿を依頼したい」との言葉があった。

どうやら塩澤さんとは違うルートで、私に長編SFの原稿依頼を考えていた方がおられたらしい。この方には独自の出版構想があって、「上田さんには、こういった感じの、こういう作品をお願いしたいのです」という意見が、あらかじめメールに添えてあった(というのは、後年、ご本人から聞かされた話だ)
しかし私は打ち合わせで、「大長編海洋SFのアイデアがあるので、どうしてもこれを書きたい」とお伝えした。版元が早川書房なら、なんの遠慮もなく本格的な大長編SFを書けるはずだと心の底から信じていたのである。

担当編集者になって下さったこの方は、話し合いのあと、「では、その作品のプロット(企画書として使える文書)を送って下さい」と仰ったので、この約束が消えてしまわないうちに早く――と意気込み、何日かかけて書き上げたプロットをすぐに送った。1980年代から1990年代にかけて、青背や「SFマガジン」を熱心に読んでいた私にとって、早川書房から長編SFを刊行することは大きな目標のひとつだった。が、簡単には刊行してもらえないのではないかという不安も抱いていた。当時の早川書房には、ベテランのSF作家の作品しか扱わない版元――というイメージがあったのだ。

だが、もともと私は、90年代に早川書房の旧「SFコンテスト」に応募したかったのがこの賞が休止してしまい、2003年の小松左京賞でのデビューまで、10年ほど待機し続けることになってしまった書き手である。どうしてもこの仕事を獲得したかった。本当に来たかった場所はここだという確信があった。

勿論、この作品でこけたら次はないだろうということもわかっていた。
しかし、長編SFを書く機会がこれで最後になるかもしれないのであれば、自分が好きなものを全部投入したい、絶対に後悔が残らないように書きたい、と考えた。例の構想ノートから単行本一冊分ぐらいの内容になりそうな部分だけを抜き出し、詳細なプロットをつくってメールで送った。先日の打ち合わせの際、もしこの作品を書くとしたら、原稿の総枚数は四百字詰め原稿用紙で1000枚ぐらいになりますと、私はあらかじめ担当編集者の方に伝えていた。最終的にまとまったプロットは、予想通り、それぐらいのボリュームに仕上がるであろうことを示していた。

いまにして思えば、無茶苦茶な枚数である。
長編SFでまだ一度も成功していない新人作家が、いきなり「書かせてくれ」と頼める枚数ではないのだ。
だが、早川書房のJコレクションにレーベルとしての勢いがあったおかげが、このプロットは企画会議を一発で通過した。

これが『華竜の宮』の執筆がスタートした際のエピソード、刊行3年前までの経緯である。