(10)【著者記録: 2003-2023】授賞後の話 (1)

千里中央は万博記念公園の近くにある。万博記念公園は1970年に開催された日本万国博覧会の跡地が公園になった場所で、太陽の塔がある場所といえば、関西以外にお住まいの方でも、「ああ、あそこか」とおわかり頂けるのではないかと思う。万博にブレーンとして参加した小松さんとは縁の深い場所である。千里中央駅は、大阪モノレールの万博記念公園駅からふたつ手前になる。

千里クラブで15時に、と言われたので、私は15分ほど前に到着し、ビルの一階、公衆電話が置かれていた場所で待機することにした。待ち合わせ場所はもっと上の階だったのだが、早く行きすぎても意味がないので、いったん一階に留まったのだ。
じっとしていることができなくて、公衆電話の前を行ったり来たりしながら時間を潰した。そこはがらんとした無人の空間で、動物園のシロクマの如くグルグルと歩きまわっていても誰からも咎められることはなかった。ここへ来るまでの電車の中でもドキドキしていたが、いよいよ現場となると、「ついに小松さんと会うのか」「きちんと話ができるだろうか」と気が動転して、公衆電話の前で10分間ぐらいシロクマ状態を続けたのだった。

約束の5分前になってやっと決心がつき、階段を登り始めた。そう、エレベータは使わなかった。ゆっくりゆっくり、階段を登っていったのだ。

待ち合わせ場所は、会議室みたいな、やたらと広い部屋だった。私は先に室内で待機し、そのあとに小松さんが時間ちょうどにお見えになるだろうと思っていたので、扉を叩いて挨拶して中に入ったら小松さんはもう先に机の前に座っておられて、思わずのけぞりそうになった。
室内には事務用の長机が何台か置かれ、小松さんは秘書の乙部順子さんと一緒に、書類を前に熱心に話し込んでおられた。
直後、すぐにわかったのだが、ゲラの作業中だったのだ。
この時期は、角川春樹事務所から小松左京作品集が文庫で連続刊行中だったので(緑色のカバーで統一されたハルキ文庫のアレである)小松さんは待ち時間のあいだに、その文庫用のゲラチェックを行っていたのだ。乙部さんが本文を読みあげると、小松さんが「そこの言葉は変えてくれ」とか、いろいろと指示を出す。時代の経過によって古びてしまった言葉を、いまの読者にもわかる言葉に変更している様子だった。星新一さんが自作に手を入れ続けたように、小松さんも昔の原稿をそのまま新装版にしてしまうのではなく、そのつど細かく、オリジナルの雰囲気が壊れない範囲で新しい言葉を使う作業を続けていたようだ。
小松さんが出先のホテルで締め切り間際の原稿を書いている現場に遭遇した人は、お知り合いや作家仲間の中に何人もいたはずだが(SF作家の堀晃さんから、そのような話をうかがったことがある)、私も、思わぬ場所で、貴重な現場に立ち合うことになったのである。

角川春樹事務所の編集者だけがまだ到着していなかったので、乙部さんから「もうちょっと待って下さいねー、これだけ済ませてしまいますからねー」と言われて、私は「はい、わかりました」とうなずき、小松さんと向かい合わせになる位置に座った。
ほどなく、角川春樹事務所の編集者が到着して、挨拶を交わした。これから、この方が私の直接の担当になるとのことだった。小松左京賞は私が受賞した回で四回目で、第一回のときには佳作と努力賞も出ていたし、賞を獲得しなくても本が出た人もいたし、プロ・アマ問わずの賞だったので、その後、応募作が角川春樹事務所でシリーズ化された方もいる。そういうわけで、何人かの編集者が手分けして小松左京賞関係の作家の担当になっていたのだ。大手出版社の編集者は異動が多いので担当編集者が次々と変わっていくのだが、中小規模の会社だと、最初に担当になってくれた方とのお付き合いがずっと続くことが多い。この方も、のちに角川春樹事務所を退職するまで私の担当を続けて下さった。

関係者が全員そろったので、乙部さんが「じゃあ、そろそろ始めましょうか」と仰った。いよいよ、小松さんとの対談が始まるのだった。