私のデビュー前後の状況については、まず、小松左京賞が設立された動機やその背景について説明しておく必要がある。何しろ20年前のことなので、既に当時の空気を知らない人のほうが多いだろうし、当事者以外は記憶も薄れているだろう。この記録は、そういったことを書き留めるために始めたのだ。
90年代、日本でSFが「冬の時代」と呼ばれた時期があった。
その少し前から著名なSF雑誌が次々と休刊になったり、1992年には早川書房のSFコンテストが休止されたり、新刊の帯にSFと書くと本が売れないので絶対に書きませんと出版社が言い出したり、ジャンルSFと銘打った本が一冊も出版されない年があったりとか、そういった時代の話だ。ただし、これは「旧来のスタイルの活字SFに限った現象」であったことを、よく理解しておく必要がある。
ライトノベルや漫画の分野では、SFは相変わらず「マニアックな分野」というレッテルを貼られていたものの、70年代後半から起きたアニメブームの影響もあって熱気を保っていた。80~90年代のあいだに、ライトノベル系の各新人賞、日本ファンタジーノベル大賞、日本ホラー大賞、空前のヒットとなった架空戦記ブーム等の中から、のちに旧来の活字SF分野で中核的存在となっていくSFの書き手が次々と現れていくこととなる。当時私はただの一読者として、ライトノベルやファンタジーノベルから出てこられた方々の作品を読み、すごいなあ、面白いなあと感動し、次々と刊行される新作を楽しんでいた。
その一方で、従来のSFの書き手とファンとのあいだには、「周辺ジャンルだけが活況で、自分たちがよく知っているタイプのSFの書き手や作品がなかなか出てこない/そういった作品を出版する機会が激減した」という苦境と焦りと、世間一般の感覚とのズレに対する苛立ちがあったようだ。
このあたりの事情は深く立ち入るとそれだけで本が一冊書けてしまうほど複雑なので、当エッセイではこの程度の言及に留めて先へ進む。そもそも私は、その頃、ただの一読者にすぎない。当時の全体像は、複数の関係者が証言を突き合わせ、証言内容の食い違いなども仔細に残しながら、複数の人間の記述によって記録をつくりあげるのがベストだろう。おそらくひとりの記述者の視点からは、いくつもの重要な証言が抜け落ち、正確な記録にはならないはずである。
このような状況下、2000年5月に開催された「SFセミナー」において、インタビュー企画に登壇して、皆を驚かせる斬新な発言をしたひとりの人物がいた。小説と映画のメディアミックスによって新時代を切り開き、出版界の常識を変えた男――角川春樹氏(当時、角川春樹事務所社長。のちに、同社の特別顧問の期間を経て、現在、会長兼社長。小松左京賞設立に膨大な情熱を注ぎ込んだ人)である。
これに関しては、古くからのSFファンとして有名な冬樹蛉氏がネット上に記録を残しているので、詳細はそちらを読んで頂きたい。当時のSFセミナーの雰囲気がストレートに伝わってくる楽しい文章だ。
●間歇日記 世界Aの始末書
2000年5月3日(水)
「SFセミナー2000」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ray_fyk/diary/dr0005_1.htm
また、書評家のタニグチリウイチ氏の日記にも記録が残されている。
●平成の4分の3をカバーするウェブ日記『日刊リウイチ』から平成を振り返る
「第69話、SFセミナーで角川春樹がSFの時代を告げタカノ綾が海外SFを語りセガの入交社長が副会長に棚上げされ3時間半の『EUREKA』が上映される」【平成12年(2000年)5月の巻】
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888821981/episodes/1177354054889590944
これらの記録によると、角川春樹氏は、当時、下記のように発言したのだという。
「(いまはSF冬の時代と言われているが)これからはSFが『来る』」「角川春樹事務所では、SF新人賞として小松左京賞を設立する」
のちに角川春樹氏は、「これからはグルメ小説の時代だ!」と宣言して、自社で次々と大勢の作家にグルメ小説を執筆させ、それが高田郁・著の「みをつくし料理帖シリーズ」の大ヒットへと結実することになるのだが、この年のSFセミナーでも同じノリで「これからはSFの時代だ!」と宣言したようだ。
小松左京賞の第1回の応募締め切りは1999年で、受賞作が発表されたのは2000年だった。文字通り世紀を超えて、「冬の時代」を振り切っての出発だった。
なお、これに先行する形で、日本SF新人賞(主催:日本SF作家クラブ、後援:徳間書店)が1999年に第1回の受賞作を発表しており、以後10年余り、ふたつのSF新人賞は、21世紀初頭の時代と並走することとなる。