都筑道夫氏のハードボイルド論

 
 以下の記事は、2010年前に使っていたブログに掲載していた文章です。その後、該当サイトが閉鎖されたので、ネット上からは、いったん消去していました。公式サイトにて、加筆修正のうえ再公開致します。
 
 私は、SFやファンタジーを書く作家です。ハードボイルドを専門に書く作家ではありません。狭義のジャンル小説としてハードボイルドを書いたことも一度もありません。それらに関する書評を手がけたことすらありません。ですから、本来、このような論を載せるのは非常におこがましいのですが、私自身が、たびたび、質問を受けたり疑問を投げかけられたりする事柄なので、それに対する回答として、ここに置きたいと思います。
 
 以下の文章には、都筑道夫氏が書いたエッセイの要約と、エッセイからの部分引用が含まれています。興味をお持ちになった方は、どうか、都筑氏の原文にあたって、その鮮やかな論理展開を味わって下さい。私は都筑氏のエッセイに感銘を受けたジャンル外の一作家に過ぎず、すべての価値と真実は、都筑氏のエッセイのほうにあります。この点、よろしくお願い致します。
(都筑氏は著名な作家ですが、もし名前をご存じない方がおられたら、これを機会に知って頂ければとても嬉しいです。作品はいまでも入手可能です)
 
 
■「彼らは殴り合うだけではない」というのは本当だ。少なくとも現代小説においては。■
   (初出:2010/03/08、加筆:2014/07/20、執筆者:上田早夕里)
 
 ハードボイルドの定義は人それぞれなので、「これが唯一の正解だ」と明確に言い表せるものはありません。狭い意味で言うならば、男性社会だけで通用する男性固有の価値観の共有を指してそう呼ぶこともありますが、そういう創作物に対して、斎藤美奈子氏は「男性用のハーレクイン・ロマンス」と批判しました。すなわち、酒や煙草や女や賭け事や銃(に象徴される闘争関係)に人生を懸ける男性像、男性的な価値観による自己犠牲や自己愛を尊く描いた作品を、斎藤氏は、男性が女性を揶揄するときに常套句として使う「ハーレクイン・ロマンス」という言葉を逆利用して、斬って捨てたのです。
 
 もちろん、これはハードボイルドの一側面だけに言及した発言で、ハードSFだけがSFではないのと同じ理由から、完全無欠の指摘とは言い難い部分があります。SFという言葉の定義が、現代ではひどく曖昧であり、無理に定義づけしようとすると、優秀なSF作品を片端から取りこぼしてしまうことになるように、ハードボイルドの定義も、正確に一線を引けるものではありません。これはメディアの種別を問わず、古今東西のハードボイルド的な作品に広く触れた経験のある方なら、容易にうなずけることでしょう。
 それでも、私が個人的に好きなハードボイルド論というものは確かにあり、それは、都筑道夫氏の「彼らは殴り合うだけではない」というエッセイなのです。
 
 これと出会ったときの驚きは、いまでも忘れられません。それまで、さまざまな作家さんの「ハードボイルド論」に感銘を受けてきましたが、これほどまでに、自分の価値観とぴったり重なり合うものは他になかったからです。
 過去の有名なハードボイルド論としては、レイモンド・チャンドラーの「簡単な殺人法」(現在、創元推理文庫発刊の『事件屋稼業』に収録)が、まず思い浮かびます。この論の最後に出てくる「だが、こうした卑しい街路を、ひとりの男が歩いていかねばならぬのである。」から始まる一連の文章は、いま読んでも、とても美しいハードボイルド論です。
 ただ、個人的には――そして、現代の書き手としては、都筑氏の「彼らは殴り合うだけではない」のほうに、ハードボイルドのより広い可能性を感じるのです。
 
 一般小説でシリアスなハードボイルドを書く行為は、価値観の相対化によって、20世紀後半あたりから、非常に難しくなってきたと言われています。古典的な意味でのハードボイルドのイメージは、固定された男性像や固定された理想的男性像を、数多くの人々が共有していた時代の賜でした。眩暈を覚えるほどの多様性に翻弄され、次々と新しい概念が頻出する現代社会においては、固定された価値観は、なかなか共有感覚を広めていくことができません。かつては「美しい」「逞しい」「頼りになる」と思われていた価値も、現代では、多様な価値の中のひとつに過ぎず、それを誰もが共有できると考えるのは難しくなっています。
 しかし、そんな状況下にあってさえ、都筑氏の論は、時代の制約を、あまり受けないように感じられるのです。汎用性が高く、ミステリージャンル以外に「ハードボイルド的な視点を持ち込む」際に、極めて有効に働くのではないかと思えるのです。
 
 都筑氏は、ハードボイルドをミステリの一ジャンルというよりも、「ものの見方(視点)の一種」「人間の生き方の一種」として見ている節があります。そして、ジャンルではなく「視点」である以上、この視点は、他ジャンルの小説にも応用可能なはずです。
 これは、「SFをSFとして成立させているのは、小道具ではなく、その思考方法のほうにある」という考え方に、とても似ています。SF的な小道具(ガジェット)がたくさん出てくるからSFなのではない。作中に「SF的思考法(SF的論理性)」があるかどうかをSFの判定基準にするという考え方は、私にはとても納得のゆくものです。
 つまり、都筑氏のハードボイルド論は、現代的なSF設定とも非常に馴染みがいいのです。21世紀の複雑な社会構造について考えるとき、非常に役立つものではないかと、私には思えるのです。
 
 以下、この「彼らは殴り合うだけではない」を、差し支えのない範囲で引用してみます。現在、このエッセイは、『都筑道夫コレクション《ハードボイルド篇》 探偵は眠らない』(光文社文庫)、あるいは、『都筑道夫 ポケミス全解説』(早川書房)で読むことができます。初出は、昭和31年(1956年)1月1日発行『宝石』第106号(岩谷書店)、いま(※ 2010年)から54年前に書かれたエッセイです。
(※注※ 2015年現在から計算しますと、59年前となります)
 
 エッセイの冒頭を、都筑氏は、アーネスト・ヘミングウェイの長編小説の内容を紹介しながら書き進めます。この作品の主人公は、恋人が死んでも涙ひとつ見せず、病室から医者を追い出し、死人の顔に冷たい一瞥を投げた後、「ここですることは、もう何もない」とつぶやいて、病院をあとにし、雨の中を何事もなかったかのように立ち去っていきます。 悲恋小説であれば主人公の詠嘆が長々と描かれ、広告が「泣ける小説!」と宣伝するような作品を、ヘミングウェイは、あっけないほど淡泊な終わらせ方をする。
 
 これをもってして、この主人公を「感情のない人間」、ハードボイルドを「冷酷非情の文学」とラベリングしたことが、日本でハードボイルドに対する大きな誤解を生じさせた、と、都筑氏は指摘します。
 そして、下記のような文章が続きます。以下は、都筑道夫氏のエッセイ「彼らは殴り合うだけではない」からの引用です。
 
 
------(引用開始)---------
 
(前略)
 
  もう少し説明をつけくわえましょう。ホタルは鳴かないのではなく、わかりきったことですが、鳴けないのです(*1)。鳴けないように生まれついているのです。ハードボイルド文学の主人公たちも、鳴きたくとも鳴けない環境にあるのです。
  その環境とは、極度に発達した文明社会です。つまり勿体らしく聞こえるように言えば、ハードボイルド文学とは、近代社会の要求する人間の組織化に対して、圧迫された個性があげる絶望的な反抗の叫びなのであります。たがいに触れあうことのなくなった個性が、相手をもとめてあげる声なき叫びなのです。
 
(中略)
 
  社会の重圧に歪められて、すなおに触れあうことの出来なくなった個性は、恋愛をするにしても情事というかたちしか取れません。彼らの真情はつねにすれちがい、たがいに傷つけあって破局に進むのです。
  ハードボイルド文学の根底に、表看板の冷酷非情を裏切って、じみじみとしたセンチメントが漂っていることは、少し小説を読み馴れたひとなら、誰しも気づくところでしょう。
  ただそのセンチメントは、いつも非情の沙漠に吸いこまれてしまうのです。大坪砂男氏の表現を借用すれば、「荒涼たるセンチメンタリズム」なのです。私はハードボイルド文学を、歪められたロマン文学だと思っています。
 
(中略)
 
  深夜の酒場で探偵が酒を飲んでいると、そこへギャングが現れて殴りあいになり、妙な女がからんできて、そいつを裸にしてみせれば、いちおうハードボイルド探偵小説になりますし、事実アメリカで氾濫している、この派の作品の中にはそういうものも多いのですけれど、そんなものは偽物です。
 
 
    (*1)「鳴く虫よりも、なかなかに鳴かぬホタルが身を焦がす」
        という唄からの引用。
 
------(引用終了)---------
 
 
 「偽物です」という言い切りに、当時の、都筑氏の批判精神が如実に感じられます。自分たちが目指しているのはその程度のものではない、もっと先を見ているのだという自負が、この言葉を書かせたのでしょう。
 
 実際には、都筑氏が批判したようなハードボイルドのイメージは、21世紀現在でも消えていません。むしろ、典型例として、多くの人の頭に刷り込まれ、それ以外の多様なニュアンスを認めなくなりつつあります。
 
 都筑氏も含め、その後に続いた多数のハードボイルド作家にとっては、この典型例から少しでも離れ、いかにして自分の個性をアピールしていくか――ということが、作家としての課題となったのでしょう。私たち読者が楽しんできた多くの作品は、その実践の歴史だとも言えます。
 
 都筑氏の論理を敷衍するならば(先に述べられた精神性を保ち続けるならば)探偵小説やミステリ作品だけに留まらず、どんな種類の小説にでも、ハードボイルド的なニュアンスの導入が可能となります。
 場合によっては、「犯罪的な状況」の設定すら、必要条件ではありません。
 都筑氏のハードボイルド論には、50年以上の歳月を経てもなお、読み手の心をうつものがあります。お読みになったことがないなら、ぜひ一度、目を通して欲しいと私がしばしば口にするのは、この創作上の応用範囲の広さと、論としての美しさに気づいて欲しいからなのです。
 
 それが、時代を超えてハードボイルド小説を受け渡していく、ひとつの手段であるような気がしてならないのです。
 
 
(文責:著者 / 2015.9.12)
 
 
 
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