【著作に関するエッセイ】 第1回/『薫香のカナピウム』

 
 2011年5月3日、東京でSFセミナーに出演したとき、のちに『薫香のカナピウム』(文藝春秋/2015年刊行)の担当編集者となるA氏に初めてお目にかかりました。当時、A氏はイーストプレスに勤務しておられ、前年に発刊された『華竜の宮』に興味を持ってSFセミナーに参加して下さったのです。
 A氏からは後日あらためてメールが届き、その際に、Webマガジン「マトグロッソ」での連載をお願いされました。メールには『華竜の宮』に関する考察と、それを踏まえたうえでの新連載に関する要望がびっしりと書き込まれており、私はかなり驚いた記憶があります。この時点で、ここまで詳細に的確な感想を送って下さった方は、ほとんどいなかったからです。
 
 『華竜の宮』は、「SFが読みたい! 2011年版」(早川書房)のランキングで取り上げて頂いたものの、当時、SFジャンル外では、あまり存在を知られていない作品でした。日本SF大賞は、8月末に候補作を締め切って12月初旬に選考する方式だったので、2010年10月末発刊の『華竜の宮』の場合、仮に日本SF大賞の候補になったとしても選考会は発刊の翌年回しであり、さらにそれが12月であることから、授賞式はそのまた翌年春の予定。発刊から一年半近く経過した後(2012年春)まで待って、ようやく、ジャンル外の方々にも認知されるという、のんびりとした情報の広がり方をしていたのです。したがって、この時点でA氏から頂いた分析は、私にとって大きな驚きでした。
(渡邊利道氏による「『華竜の宮』論」(日本SF評論賞/2011年12月末)すら、この時点では、まだ発表されていません)
 
 『華竜の宮』は、様々な側面から解釈可能な作品ですが、A氏もそれらを踏まえたうえで、自然科学を題材として取り入れたもの――具体的には「ツキソメたちの物語のその先にあるものを読みたい」という表現で、新連載の主軸を希望されました。これは『華竜の宮』の番外編を書いて下さいという要望ではなく、共通する方向性で、まったく違う新たな物語を書いてもらえないかという意味でした。つまり『薫香のカナピウム』という作品は、企画の段階から『華竜の宮』と双子関係にある作品だったのです。
 
 さて、「ツキソメたちの物語のその先にあるものを読みたい」という要望を形にするには、どのような形式がよいのか。私はこれに対して「林冠生態系の話はどうですか」と切り出しました。のちに文藝春秋のサイトに掲載されたインタビュー記事http://hon.bunshun.jp/articles/-/3387にもある通り、アジアの熱帯雨林の話が念頭にあったからです。
 この記事の2ページ目にある通り、岩波書店の雑誌「科学」の特集(「林冠クレーンが導く熱帯雨林研究の未来」)と、熱帯雨林の研究者であった、故・井上民二氏の著書『熱帯雨林の生態学 ―生物多様性の世界を探る―』(八坂書房)が、すべての発端として存在しています。林冠だけで一生を過ごし、決して地上に降りないという生物の様相は、そのイメージが漂海民の生活と非常に似通っています。勿論、海と森とでは環境が違うので、細部の描き方は変わってくるのですが、これが題材としてとてもよさそうだという結論になって、本格的な資料探しが始まりました。『科学』の記事も井上氏の著作も、発刊が少し前の年度だったので、あらためて現状を調べ直す必要があったのです。この時点で、実際に、仕事でボルネオ島の熱帯雨林に入っている方からも、お話を聞くことができました。
 
 『薫香のカナピウム』の執筆が具体的にスタートしたのは、2012年3月の日本SF大賞授賞式が終わってからです。つまり、『薫香のカナピウム』の連載は、『深紅の碑文』の執筆時期と完全にかぶっていたのです。妖怪探偵・百目シリーズ(光文社の文芸誌「小説宝石」不定期連載)ともかぶっていました。この時期は短編SFもいくつか書き、少しだけ、ブックレビューの仕事もしました。『薫香のカナピウム』と『深紅の碑文』を同時に進めるのは非常にきつい作業で、ですから、カナピウムは途中で、何度も休載を挟んでいます。書けなくなったから休んだのではなく、『深紅の碑文』を優先しなければならない期間のみ、休ませてもらっていたのです。
 ただ、並行して進めることで、双子関係を持つ両作品の違いが、くっきりと際立つ結果にもなりました。ついでに記しておくと、百目シリーズも『華竜の宮』『深紅の碑文』との関係から方向性を決めた作品ですが、これについては、百目シリーズについてエッセイを書く際に、あらためて述べさせて頂きます。
 
 このような事情から、『薫香のカナピウム』は、当初から一冊完結をめざしており、続編は一切考慮されていませんでした。オーシャンクロニクル・シリーズでやれなかったこと(正確に言うと、あちらのシリーズでは行いにくいこと)を、一冊に凝縮して書くのが目的だったので、第一章の(1)をスタートさせたときから全体の構造は決定していました。私はどんな作品を書くときでも、オチを明瞭にしてからでなければ執筆しないので、この時点で、物語が行き着く先は見えていました。「その形」を完成させるために様々な手順を踏み、課題をひとつずつクリアし、書くべきことをすべて提示し終えた時点で物語を閉じましたので、続編として書くことは、もう何も残っていないのです。
 
 私は、人間と他生物(および自然環境そのもの)との共生は、古来より、慎重な思慮なしには成立し得なかったものだろうと思っています。人間中心主義でものを考え続ける限り、人間は他生物に対して一方的な殺戮者でしかなく、古い時代からの知恵と知識に新しい時代の科学を加えることで、ようやく、他生物や自然の一端と折り合いがつく――せいぜい、それぐらいの限定的な意味での管理しか、人間のとれる手段はない。このあたりの事情に関しては、アジアの熱帯雨林に関する自然科学系の書物を読んで頂ければ、さまざまな実情がわかります。
 
 『薫香のカナピウム』は、それらを大前提としたうえで書かれた作品で、だから、ラストの先にあるものは希望ではない(この環境に最も適しているのは〈融化子〉だという答えが出てしまっているので) でも、絶望しかないわけでもない。クチル・クチルからの脱出組の未来には、種としての絶滅と死があるだけですが、だからといって、個々の生命の輝き自体が失われるわけではありません。
 
 ちなみに、著者である私自身は、彼女たちを、通常の意味での「人間」とは異なる者として定義しています。むしろ、野生動物に近い存在であり、彼女たちが物事に対してあまり葛藤しないのはこれが理由です。厳しい自然環境の中では、都会人のようにのんびりと葛藤していたら即座に死んでしまいます。ですから彼女たちは、悩んだり迷ったりすることなく、環境の変化に対して、素早い選択と適応を繰り返します。このような行動様式の選択は、著者が意図的に行ったものです。これは、一般小説の「文学的な人間表現」とは大きく異なる、SFやファンタジーに固有の要素のひとつです。
 
 「ツキソメたちの物語のその先へ」という要望で始まった物語は、「愛琉たちの物語のその先へ」と続く答えを得て、著者に、新たな展望を与えてくれました。それは、オーシャンクロニクル・シリーズの「マイーシャ篇」「ルーシィ篇」に引き継がれ、また、新たな未来と答えを見出すことになるでしょう。
 
 
 なお、以上の文章で書いてきた事柄は、あくまでも著者側からの作品設計の話なので、読者の方々には、ラストのページからあとの世界を、どのように空想しても構わない自由があります。主人公たちが死んだり絶滅したりするのではなく、無事に生き延びる世界を作り出す自由は、読者の側にあります。
 
 最後に、そのあたりのヒントについて少しだけ言及し、このエッセイを締めくくりたいと思います。
 
 作品本編とのつながりから考えるならば、愛琉たちが到着する先は(海流を利用しながら北上するので)南西諸島・西表島付近と思われます。この地域は、ボルネオ島と違って、熱帯ではなく、亜熱帯の森林が広がっています。つまり、動植物の分布がボルネオ島とは完全に異なり、昆虫や海洋生物や病原菌などの種類や繁殖に関してもこれは同様です。樹木の種類や形態が違えば、当然のことながら樹上生活の様式も変わります。食べられるもの、食べられないものの選択も厳しくなってきます。新しい土地での植物や動物の毒性についても、彼女たちは知識を持っていないので、クチル・クチルでのやり方は、まったく通用しません。商隊との物々交換も途絶えるので(〈巨人たち〉が意図的に援助しなければ)道具類の問題なども含めて、新たに生活環境を作り直さねばなりません。おそらくこの過程で、大量の仲間の命が失われるか、あるいは一気に全滅という可能性も有り得ます。運よく危機を回避したのちも、これまでよりも、生活様式が後退するのは必至でしょう。
 
 しあわせな結末を想像(かつ創造)するのは、難しいと思われます。
 
 しかし、読者には、それを想像する自由があります。著者の意図とはまったく違う形で未来を想像することも読書の楽しみと思いますので、ここからあとのことは、すべて読者の方々にお任せする所存です。
 
 
(文責:著者 / 2015.9.12)
 
 
 
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